自己紹介-前編-– 会社員時代の思い出 –

「借金と不安」どうやって厳しい現実を変えれば良いか?
目次

私が今のネットワークビジネスに出会うまでの経緯〈Part1〉

「ネットワークビジネスやってます!」っていうと、それだけで胡散臭く感じる人もいるかと思うので、前編と中編では「そもそもなぜネットワークビジネスを始めようと思ったのか?」MLMを始めた動機(Why MLM?)と、今のネットワークビジネスに出会うまでの経緯を、これまでに体験した“仕事から得た学び”に紐づけてお話します。

後編ではインターネットスキルがゼロだった私がどうやって成功できたのか?」ネットワークビジネスの最初の壁である集客を乗り越えた具体的な方法を中心に、赤裸々な体験談をご紹介します。ネットワークビジネスを通して得た“気づき”をシェアすることで、ネットワークビジネスや起業に関心を持ってくれる人が増えれば嬉しいです。

会社員時代に学んだこと>はじめての営業体験

塾長

私が大学を卒業した頃は、バブルの頂点に向かって景気が加速していく昭和の末期です。

金融関係の仕事はどこも活況で、お金に絡む仕事なら食いっぱぐれない!と、銀行への就職を第一希望としました。しかし大学在学中の4年間はボディビルに没頭し、成績が極端に悪かった私(A判定が3つ)には都市銀行の可能性はゼロ!地銀でも難しい状態でした。

しかしそんな中、体育会系精神をアピールする戦術が通用したのが証券会社です。証券会社はノルマが厳しく、離職率が高いことでも有名でした。成績が悪くてもメンタルの強さを売りにした面接が好評価されて、当時の四大証券(野村、大和、日興、山一)の一つである日興證券に採用されたのです。

塾長

成績の悪い私でも四大証券の1つに入社できたことが嬉しくて、先輩たちから学んで頑張ろうと心に誓いました。

塾長

さて配属先の池袋支店での初日、直属の上司になる営業課長が強面のダンプの運ちゃんの様な風体で「よろしく!」と握手され、ここが本当に証券会社か?と焦ったのを覚えています (笑)

とにかくキャリアゼロからの出発です。全てが未体験なので、仕事を覚えながら働く毎日が始まりました。

当時は銀行業務を農耕、証券業務は狩猟に例えられましたが、同じ金融機関でも銀行と証券会社では収益構造が異なります。私が働いていた頃の証券会社の収益の柱は株式や債券の仲介手数料だったので、営業も株式の売買と、投資信託の募集が主な仕事でした。(つまりその2つがノルマの大半だったのです)

中国ファンドで幕を開けた金融の自由化の波

そして当時初登場した中国ファンド(中国といっても中国に投資するファンドではなく)中期国債を中心に運用する追加型の公社債投資信託の登場で、金融の自由化が始まります。つまり銀行と証券会社の垣根が低くなって資金獲得競争が激化したのです。

それまでは銀行の普通預金や短期の定期預金に対抗する金融商品が証券会社にはありません。しかし中国ファンドは「金利が高く、縛りがたった1か月でその後の出し入れが自由!」という画期的な金融商品で「元本が保証され利息もつくので銀行の普通預金や定期預金より断然お得!」と、証券会社が銀行に対して大々的に喧嘩を売ったわけです。

塾長

私はこの金融の自由化の流れに乗って、まずは運用資金を集めようと考えました。しかしそれには新規開拓が必要です。そこで支店長に自転車を買ってもらい徹底的な飛び込み営業を始めました。

当時は証券マンが都内を自転車を使って走り回るというのは、かなり斬新な営業スタイルだったと思います。(少なくとも池袋支店では私以外にはいなかった)

池袋を起点として豊島区を自転車で走り回って、疲れたら喫茶店でお茶してまた飛込む、という日々を送って新規開拓に多くの時間を使いました。

塾長

新調した背広のズボンのお尻がサドルでツルツルになってよく指摘されましたが、学生時代をジャージで過ごしていた私には全く気になりませんでした (笑)

他の人たちはというと、午前9時から午後3時までは証券市場が開いていたので株の売買の電話営業です。手持ちのお客様が少ない新人は、電話での見込み客作りがオーソドックスなやり方でした。そのため当時の証券マンの外出は場が引けた3時以降に限定され、3時以降は取引の清算業務があったので、新規開拓に飛込み営業するのは時間的にも難しかったと思います。

私のような飛び込み営業は、株式売買のノルマが少ない新人だったからできた方法だったのです。みんなが揃って電話する中で、同じことをやるより訪問した方が結論が速いと無理を言って特別に外出させてもらいました。そして徐々に過酷になるノルマを達成しつつ新規開拓を必死に続けた結果、入社して3年目で配属先の支店でトップセールスになったのです。

塾長

若さとやる気以外は特別な知識もない人間が、なぜ入社して3年目でいきなりトップセールスになれたのか?

もちろん研修は受けましたし、国が定めている資格も取得しています。しかしそれは実戦で使える知識ではありません。実力も中身も無いのは本人が一番知っています。トップセールスになれた理由は、お客様は私ではなく、会社というブランドを信用して大切なお金を任せてくれたからです。

塾長

さらに言うと会社からは歯車の1つになることを要求され、その要求に私が答えた!というのが正直な答えです。つまり何も考えずにノルマの達成を優先順位の1番にしたのです。

最初のイメージってすごく大切で、一度あいつは仕事ができるやつだって評価されると、会社からは優先的に有望なお客様を任せてもらえるようになります。その後は開拓をせずとも顧客数は増えていきました。

しかしそんな仕事のやり方が次第に面白くなくなります。朝から晩まで仕事オンリーの毎日、慢性的な睡眠不足で昼寝するために山の手線に乗って何周もしたり、喫茶店で仮眠したり…

塾長

やっぱり電車内で仮眠するのが一番多かったと思います。

石の上にも三年と言いますが、私の場合は逆に3年を過ぎるとその月のノルマをこなすだけの毎日がむなしくなり、トップセールスになってからは嫌気がさしてきました。「例え出世して支店長になっても面白くない!」もっと深く勉強して色々なことを身に付けて自由に働きたい!そう考えるようになったのです。

そして入社してから5年後、ちょうど会社の70周年の7月のノルマを達成した日に辞表を出したのです。その半年後の12月にはボーナスを満額もらって円満退職!支店を後にして帰宅する時のワクワク感、思わず大学に受かった時の感覚がデジャヴで蘇りました。今考えても理想的な引き際だったと思います。

塾長

証券マンだった5年間は、ノルマを達成するために必死に頑張った5年でした。

その結果、金融や証券の基礎知識も身に付けられましたが、とにかく会社の戦力として認めてもらえたという事実がその後の自信になったと思います。

塾長

しかしその反面、井の中の蛙になったというのが反省点です。物事を分析する力や正しい価値観はお寒い限りで、この後の人生でそれを嫌という程思い知ることになります。

年が明けた平成元年、大学の知人の紹介で投資顧問会社に再就職。この会社は日興証券でノルマ達成の為に働き詰めだった私にとって、天国の様な会社でした。

社内は社長を始めとして全ての社員が飛びぬけて優秀な人たち、つまりプロ集団で、そんなメンバーの一人に加われたのは幸運でした。しかも社長の友人の紹介ということもあって、本当に充実した時間を過ごすことができたのです。

この会社では、後にも先にもこれ以上は無い位にやりたい事をやらせてもらいました。日興証券での5年間が試練の期間だったとしたら、この会社で過ごした期間は癒しと学びと充電でした。今でも心から感謝しています。

しかし時代はバブルがはじけて右肩下がりの低迷期に突入、5年間働いた投資顧問業も終焉を迎え、私も気持ちを新たに第3の人生設計を考え再び転職します。3番目の会社は塾業界の最大手、東京個別指導学院(TKG)です。そこでは1か月の研修後、いきなり柏教室の室長を任されます。

なぜ金融コンサルからいきなり塾なのか?

塾長

それは当時のTKGの求人広告が「営業力求む!」だったからです。

教育に関する知識は不要!ただし営業力のある人が必要!というオファーです。投資顧問会社での5年間、自由三昧で力がみなぎっていたので、新天地でとにかく何かにチャレンジしたかった私にはドンピシャの案件で、速攻で応募して採用されました。

そして門外漢の私は知らなかったのですが「募集期」という1年間の塾生を集める最も大変な時期に、柏教室の室長を任されることになります。

塾長

結局、採用されてから半年後に辞表を出して辞めることになるわけですが、この半年間は証券営業で鍛えた私にとっても別の意味で地獄を味わいました。

過酷な日々は、一方的な制裁から始まります。募集期のノルマを課せられたものの自由にやらせてもらえず、生徒募集のために配布したチラシを見た見込み客からの電話を、アポを取るアベレージでランク付けされ、アポ率が悪いと他の教室の室長に転送され、サポートに来た他の教室の室長から屈辱を味わいました。

これまで営業でやってきた私に受験塾のノウハウや知識は全くありません。そして生徒指導に対する情熱もないことは私自身が一番認識していたので、そこを指摘されても何も言い返すことはできませんでした。

それ以上に困ったのは、当時のTKGのインターネットのシステムがよく理解できなかったことです。報告が全てメール、電話報告を一切認めてもらえず、間違えると直ぐにフリーズするシステムには何度PCを叩き壊そうと思ったことか!(-_-;)

塾長

通勤に時間がかかって、時間がどうしても足りず、家に帰らずに教室に寝泊まりすることも…

塾長

実はこの時期、都内の病院にC型肝炎で入院していた母が亡くなり、仕事と介護で精神的にも追い詰められていました。

畑違いの職場に来たことの後悔と、しかしこのまま負け犬になって辞めるにはあまりに悔しい!という変なプライトから、とにかく募集期のノルマを達成してから辞表を出してやる!って心に誓いました。

一ヶ月も研修するなら営業研修よりシステム研修を入れるべきでは?散々愚痴ってましたが、募集期の最後の三日間だけはサポートに来ていた室長に全ての雑事を代行してもらい、好き勝手にやらせてもらう最後のチャンスをもらいます。

で、結果はどうだったか?

塾長

おかげさまで無事ノルマを達成しました!

具体的にはノルマの期限の前々日から、朝から晩まで全ての塾生の親御さんに面談のアポを入れまくって、二日間の面談で受講しているコマ数を倍に増やしてもらったのです。(ノルマが獲得人数ではなくコマ数だったのです)

たったこれだけのことなのですが無事にノルマは達成!ある意味会社への当てつけで無理やり作った数字だったので、直後に社長からお祝いのメッセージがFAXで送られてきたのには、こんなんでいいのって拍子抜けしました。

塾長

そしてお祝いに来た統括部長に辞表を提出、散々引き止められましたが意気揚々と辞められました。

仕事はゲーム感覚で面白味もありましたが、塾なのに教育に全く興味が無い人間がいていい場所とは思えなかったのです。

塾長

入社してから僅か半年だけの塾の室長でしたが、全くの異業種での営業体験は私にとってレアな経験として強く記憶に残りました。

そして最後になった4番目の会社ですが、新宿の歌舞伎町の近くの会社に大学の先輩の紹介で就職します。結局ここも1年間で辞めることになるわけですが、社長が怪しい人で隠れて出資法に違反する行為をしているようだったので、こちらから手を切りました。ただこの会社のクライアントの案件で、この後独立することになります。

以上が私の会社員時代のあらすじです。こうして振り返ってみると、私はサラリーマンには向いていないって実感します。とにかく人の言うことを一方的にやるのが嫌だったのです (笑)

塾長

自分流を押し通した12年間でしたが、やりたいようにできたのは時代がバブル期で追い風だったからだと思います。

塾長

迷惑をかけても許してくれた会社と、世間知らずだった私を教え導いてくれた先輩方には感謝してもしきれません!

私はこの12年間に色々なことにチャレンジしました。それは仕事における自分探しをやり続けた感じです。いつも「自分のやるべき仕事って何だろう?」って考えながら働いていました。しかし結論は出ませんでした。ただ「会社員という働き方に生きがいを見出すのは難しい!」ということは悟って、ここから先は雇われではなく自分の力でやって行こうと決断します。

そして「自分ができることは何か?」を考えた時、自分で何らかのコンテンツを作るのではなく、人が作ったコンテンツを売る仕事、つまり営業代行を自分の仕事にしようと考えたのです。12年間で自分がやってきたことは、つまるところ営業だったので、会社のブランドに頼らない営業のプロを目指しました。

塾長

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相談者A

「お金の不安を無くして本来の生き方を探したい!」「子育て中だけど何とか空いた時間で働きたい!」

相談者B

「収入源を複数持って会社依存から脱却したい!」「稼ぐ力を身に付けて自分の家族は自分で守りたい!」

塾長 杉山昌俊

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